夏休みが終わるとともに、あちこちで子どもの自殺とおもわれる事故・事件が相次いでいる。
いつから学校は、恐怖の場所になってしまったのだろうか。
死ぬくらいなら、学校に行かなければ良いと思うが、そういう冷静な判断ができないのか、家族も含めて周囲が学校に行かないことを許さないのか。
逆に、学校が始まって命をつないだ子どももいるだろう。
ネグレクトで給食が唯一の食事という子どももいる。
年端もいかない子どもが、自ら命を絶つなんてことがないように、学校と会がまともになることを祈るばかりである。
夏休みが終わるとともに、あちこちで子どもの自殺とおもわれる事故・事件が相次いでいる。
いつから学校は、恐怖の場所になってしまったのだろうか。
死ぬくらいなら、学校に行かなければ良いと思うが、そういう冷静な判断ができないのか、家族も含めて周囲が学校に行かないことを許さないのか。
逆に、学校が始まって命をつないだ子どももいるだろう。
ネグレクトで給食が唯一の食事という子どももいる。
年端もいかない子どもが、自ら命を絶つなんてことがないように、学校と会がまともになることを祈るばかりである。
河村市長が主導する議会リコール署名にかんして、大阪の橋下知事がエールを送っている記事があった。
記事には、
首長と議会の意見が一致しない場合、市民にどちらを選ぶのかを問おうとする姿勢を評価しているためだ。
とあるが、ようするに、首長と議会という二元代表制を否定して、首長による独裁政治がやりたいだけなんだろう。ちなみに、二元代表制については、憲法学者、小林武氏のインタビューを参照のこと。
ちなみに、同じAsahi.comに河村市長の支持率に関する世論調査に関する記事もあったが、市民税の恒久減税に70%が支持というのには、あきれるしかない。半分近い市民は減税の恩恵にあずかれないばかりか、税収不足は当然行政サービスの低下として跳ね返るので、おそらく70%以上の市民が、プラスマイナスで損をするのではないかと思われる。得をするのは、大企業と大金持ちだけだ。
名古屋市民は、大企業と大金持ちの減税のために、身銭を削る奇特な人の集まりなんだと思われちゃうよ。だれか、この事実をうまく市民に伝えられないの? 新聞社もテレビ局も大企業なので、市民税減税でものすごい減税になる可能性があるから、マスメディアには期待できないけれど。
国家公務員のボーナスと給与が引き下げられるようだ。国立大学法人の教員は、公務員ではなくなったにもかかわらず、国家公務員の給与に連動して引き下げられる。国立大学法人の授業料はうなぎ登りだし、民主党の一律10%削減方針が国立大学に及ぶと、授業料は一気に70万円超えになると言われているから、そのうち、国立大学法人の教員の家庭では、安月給のために子どもを大学にやれないなどという笑えない状況がやってくるのではないかと思ったりする。そうなれば、だれも大学教員なんてなりたがらなくなるのではないかと思ったりする。知的水準の落ちた大学で教育を受けた人たちが企業に就職する。こうなると完全にデス・スパイラル。
さて、ここで一考だが、どうも世間の人々は、闘う相手を間違えている。公務員攻撃が盛んだが、公務員の給与がさがったからといって、他の人たちの給与が上がるわけではない。むしろ、公務員がこんなに低いんだからそれにあわせて、と下げられるところも出てくるのではないか。もちろん、国の財政は少しは改善するかもしれないが、もっとばっさり削れるところはたくさんある。
公務員を低くするのではなく、民間を公務員の給与水準まであげさせるほうが重要なのではないか。そうすれば、所得税も増えるし、税収だって増える。2000年代になって、大企業はバブル時の2倍ぐらいの純利益をあげているんだから、そこから吐き出させればよいだけの話。所得が増えれば、内需も拡大する。日本経済で一番大きな部分を占めている内需が拡大すれば、法人税だって増えるでしょうに。
貧しい者同士の足の引っ張り合いにまんまと乗せられていると、ますますみんなで貧しくなっていくんだけどね。
森元首相の長男の森祐喜石川県議が、「酒気帯び運転容疑」で逮捕されたという。
この容疑というのがあいまいな報道だが、こういう場合いつも気になるのは、酒気帯び運転なのか、酒酔い運転なのかということだ。酒気帯び運転の場合、呼気アルコール濃度によって、13点か25点の減点だ。酒酔い運転は、35点の減点だ。だから、酒気帯びの方が軽いというわけだ。名称的にも、酒気帯びの方が酒酔いより軽い感じがする。
権力者による犯罪だということで、警察やメディアができるだけ軽微にみせかけようとしているのでなければよいのだが。
北海道教職員組合がらみで教職員の選挙活動についてのニュースが掲載されていた。
ここで、ふたつの点からこの問題について整理しておきたい。
まず第一に、日本が民主主義国家であるならば、教職員といえども私人として政治活動の自由があるのは当然だ。公務員の選挙活動を職務と無関係なところまで拡大して規制している日本は、およそ民主国家と呼ぶに値しない。「私人として」というのは、「教員の立場を利用して」とか「職務中に」とかいうの以外の部分を指している。あなたの家で○○候補に投票しなければ、あなたのお子さんの内申書に響きますよ、とかいうのは当然ダメだ。
しかし、家に帰って隣近所の人に、「○○さんの政策は良いと思うので、ぜひ投票してください」と声をかけたり、地域でビラを配ったりするのは、なんら教員であることと関係ない。最近、公務員の職場と関係ない場所での、勤務時間以外の選挙活動や政治活動で逮捕するということがおこっているが、日本がますます民主主義から遠のき、人権抑圧国家に近づいていることに注意を払うべきだと思う。
しかし、第二に、北海道教職員組合や、私の暮らす地域あたりの教職員組合のように、特定政党の支持や支持拡大を直接的(支持集め)・間接的(団体献金)に強制するといったことは、思想信条の自由を蹂躙することになる。本来人権を守る側にある教職員組合が、人権抑圧の組織と化しているとすれば、国家だけでなく、各種団体も人権抑圧に邁進していることになる。
同様に、医師会とか、農協とか、さまざまな団体が、団体構成員の個々の思想信条を無視して、特定候補の支持を表明したりするのも人権抑圧である。
国民一人一人の人権を、国であれ組合であれ団体であれ、制限・抑圧しないように最大限配慮するのが民主主義的国家・組織のルールだろうと思う。
重松清の『青い鳥』がやっと文庫化されたので購入し、読了した。すでに映画化されていて、アマゾン予約でDVDを安く買ったが、小説を読むまでは映画を見ない主義なので、映画はまだ見ていない。
舞台はいくつもの中学校。主人公は吃音のひどい中年の男性非常勤講師。問題を抱えた生徒の「そばにいる」ために、2ヶ月ぐらいだけ雇われるこの先生が「ヒーロー」(重松清あとがき)として描かれている。
この小説では、子どもたちの抱えている問題に対する、学校の対応のばかばかしさというか、間抜けさというか、ずれというか、そういうものが際立つように書かれている。戯画化されてはいるのだが、かなり正鵠を射ているように思われる。
子どもたちの寂しさや苦しみに、本当の対応ができないのが現代の日本の多くの学校なのかもしれないと思った。
嘘をつく子どもということに関して、私は大学の授業で、「嘘をつかなければ生きてこれなかった子どもたちに対して、『よくぞ嘘をついてでも生き延びてきたなぁ』と敬意すら感じる」ということをよく話してきた。わたしのように恵まれた生活をした者が経験した事のないような辛酸を幼児や小学生のころから経験しているんだと思うと、尊敬しないではいられない。多くの学校の先生が考えるように、嘘をつく子は悪い子と単純には考えられない。
これと同じような話が、本作最後の章に登場していた。私がうまく言えなかったことを見事に表現している。敬服するかぎりだ。
ところで、最後の章で、戸田という教師が登場する。強面の教師だが、主人公の村内先生のことばを聞いて、すこしだが成長する。
私に身近にも強面の戸田という先生がいる。彼はまだ40ぐらいだと思う。まだまだ成長する可能性をたくさん持っているんだもの、自分の成長を見限らず、成長し続けてほしいと思った。
同様に、50代の研究者で、自分の研究者としての能力に身限りをつけたんだろう、何かの権威にすがって生きようとする人もいる。そんなに自分を見限らなくてもいいのに、と思う。
「人間は努力する限り迷うものだ」(ゲーテ)。そして迷う限り、成長するのだと思う。これからも迷い続けたいものだ。
日本の文部科学省は、新渡戸稲造のフィクションの『武士道』につられたのか、武道が人格形成に意味があるかのように言って、学校教育に必修として導入した。
しかし、この記事にあるように、武道をしていれば人格形成されるという保障はどこにもない。
武道の部活でいじめがあり、自殺があるというのが現実だ。剣道だけでなく、柔道でも同様だ。福島かどこかの柔道部で男子のホープ選手が、女子柔道部員にリンチまがいのことをして植物人間にしてしまったらしい事件もあったはずだ。
武道では挨拶など礼儀を重視するから、人格形成になると考えているとすればとんだ考え違いだ。子どもたちは、やれと言われるから形式的にやっているだけで、それで人格が育っているわけではない。学校の挨拶運動も同様だ。あいさつできるかどうかは、人格が育っているかどうかの尺度ではない。むしろ、「やれと言われたことをやったかどうか」と従順さの尺度だろう。
武道や挨拶運動で目指すのは、自分の不利益があっても黙って上の言うことを聞く従順な人間の育成なんだろうな、と思えてしまう。
学力テストが、国語と算数・数学という受験に必須な科目に限定されていることで、「教育課程の実施状況の調査というのは名ばかりで、実は受験競争を煽りたいのだ」というのは、教育学者からつとに指摘されてきたことだ。今回、受験科目を一科目増やすらしい、というニュースが出ているのは、文部科学省がその批判に応えようとしているのか、それとも、さらに受験教科を増やして、官製業者テストにしたいのか、どっちだろう。
記事を読んでみると、
「国語+算数・数学+1教科」の3教科に抑えつつ、追加の1教科について理科、社会、英語を毎年入れ替える方式を今後検討する。
というから、結局受験科目ばかりを調査することにかわりはないようだ。図工や音楽などを調査しないという差別待遇の理由は何なんだろう。「調査する必要がないなら、教育課程に必要ないじゃん」と言いたくなる。
さて、問題は、受験する側の負担だ。現在のテストでさえ、子どもたちはどっと疲れるというのに、さらに一教科増えると、耐えられないんじゃないかなぁ、と心配になる。さらに、大切な授業時間を削ってテストをしているのだが、さらに授業時間が削られることになるのも問題だ。授業時間が削られれば、少ない時間で授業内容を消化しなければならなくなるから、授業の進み方が早くなる。できる子は、わかるのではなく、テクニックだけ身につけるようになる一方で、授業についていけない子どもたちが出ることは必至だ。
そもそも学力テストには反対だが、やるとしても、すべての子どもが実施される全教科を受験する必要はないんじゃないの。この学校は国語だけとか、この学校は算数だけとか、抽出調査なんだから、それでも問題ないはずだよね。そうすれば、余計な競争もなくなるし、テストでつぶれる授業時間も減るのにね。
私は小学校は広島で2校、中学校は岡山県で通った。うろ覚えだが、夏の暑いときは、普通に下敷きで扇いでいたと思う。下敷きを良く忘れる子だったので、そういうときは、教科書やノートで扇いだ気さえする。
さて、現在住んでいる愛知県では、失礼なので下敷きで扇いではいけないらしい。子どもが怒っていた。「先生は、休憩時間になれば冷房の効いた職員室に行くからいいが、生徒は一日中猛暑の中にいるのだ」と。熱中症になるよりも、礼儀の方が重要なのだろうか。暑くてもうろうとして汗だくで授業に関する内容について全く考えることができない状態であっても、礼儀の方が大切なのだろうか。そもそも、心身の健康を守るための行為が無礼なのだろうか。どうも愛知の学校と教師は優先順位が間違っている気がする。
まして、現在は、地球温暖化や都市化の影響もあって、夏の気温は昔とは違う。尋常ではない。自分たちが子どもの頃に教えてもらったことをそのまま子どもに強制するのは、石頭でしかない。
それとも、下敷きだからダメで、団扇(うちわ)や扇子(せんす)なら良いのだろうか。WikiPediaによれば、
扇子(扇)はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた
という。
我が国の伝統と文化を継承することを国是とした教育基本法もできたことだし、道徳教育で伝統と文化といえば、なぜか庶民の伝統・文化はほとんど採り上げず、武家や貴族の伝統・文化ばかりを採り上げる日本だから、団扇はダメでも扇子なら許されるのではないだろうかと、からかってみたくなる。
I went to two elementary schools in Hiroshima, and went to junior high in Okayama. I can’t remember exactly but we used to fan ourselves by desk pads. I often left something necessary behind, so I used to fan myself by notebook or textbook.
Now I live in Aichi, and my children go to school in Aichi. It is barred that students fan themselves by desk pads at junior high school in Aichi. My daughter got angry and said ” Teachers can go back to staff room with air conditioner. But students are in the intense heat all day long.” Politeness is more important than avoiding the danger of heatstroke? Politeness is more important than the study condition for students? Fanning oneself is just rude in the world? Schools and teachers in Aichi don’t seem to know the right way of priority.
Moreover this is the era of global warming and urbanization, and the temperature is much higher than it was. To make students do just the way they had to be done is nothing but a hard head.
Or desk pads are the problem? Is uchiwa–a round paper fan– or sensu — a folding fan– OK? Wikipedia says;
Sense has not only the role of fanning but also the role of courtesy, gift and communication.
The Basic Act on Education had been revised to insists on succession of tradition and culture of Japan. And only the tradition and culture of samurai and nobles are being insisted in Japanese moral education. At least folding fans are permitted to use in Japanese schools, right?
Asahi.comに「退職教員、年1.2万人 成果主義・精神的負担など背景」という記事が出ていた。
公立の小・中・高、特別支援学校で中途退職する教員が増えているというニュースだ。
世間では、自分の生きづらさから、他人に攻撃的になり、なんでも叩けるものは叩けという風潮になっている。この風潮は、ほとんど公務員たたきしか政策のないMの党が得票を急伸させたことに典型的に現れている。叩けるものというとき、「税金で食わせてやっている」「生活が安定しているからけしからん」という難癖をつけやすいので、公務員や教員は格好の餌食になってしまう。一定の労働の対価として賃金をもらっているだけで、食わしてもらっているというのは筋違いだと思う。そんなことを言えば、自動車会社の社員だってなんだって、「おれたちが車などを買って食わしてやっているのだから、給料が高いのは許せない。給料を下げろ。」という論理もなりたってしまう。
記事の次の記述にあるとおり、教員は恵まれているわけではない。
文科省が06~08年に外部委託した調査では、公立小中学校の教員で「仕事に意義・やりがいを感じる」と答えた人が9割を占める一方、「勤務時間以外でする仕事が多い」という回答も9割を数え、いずれも一般企業の2倍に及んだ。「気持ちが沈んで憂うつ」という教員は27.5%で一般企業の約3倍に上り、精神面の負担が大きいことがうかがえる。
これは、公務員も同様で、この間の公務員攻撃による人員削減と低賃金長時間過密労働によって、職場はぎすぎすし、精神疾患が急増しているという。
ちょっと考えればわかるのだが、他人を攻撃して引きずり下ろしても、けっして自分が生きやすくなるわけでも豊かになるわけではない。みんなが足を引っ張り合えば、「よそはもっと給料が安いのだから、これで我慢しろ」ということのデス・スパイラルが生じ、むしろ、みんなどんどん貧しくなっていくだけだ。要するに、自分の首を絞めているだけなのだ。Mの党の支持率が上昇してるようだが、「みんな」とは、小さな政府によって得をする一部の大企業、大金持ちのことで、実態は、「(庶民に)みんなで足を引っ張りあわせる党」なんだけどね。
いずれにしても、教員がバッシングなどによって、やりがいどころか、苦痛を感じるようになったら、けっして良い教育はできない。良い教育ができなければ、本当の意味で子どもたちの学力と人格は育たない。子どもが賢くならなければ、世の中はちっとも良くならない。むしろ、負の資産を社会に送り出すことになってしまう。そうすると、ますます社会が成り立たちにくくなる。また、足の引っ張り合いの世の中を前提にして子どもたちに競争の教育が行われているので、子どもたちはますます生きづらくなっていく。負の資産はどんどん膨らんでいっているのではないか。
教育と子育てをする人にゆとりがない社会は、衰退していくしかないだろうと思う。
I found an article of Asahi.com– 12.thousand teachers quit the job annually: mental pressure by the competition and something.
It is the news that the resignation of teachers of elementally, junior high and high school is increasing.
People gets aggressive to others caused by difficulties to live of one’s own. Many wants to offend others if he or she could offend them. This trend is proved by rapidly increasing popularity of M’s party(I don’t konw its English name because its website doesn’t have English pages.) When they refer to others whom they could offend, it usually means teachers and civil servants. Because they believe that they nurture teachers and civil servants by tax. If so,the workers in automotive industry also nurtured by the car buyers. People could say that the salary of workers must be lowered and lower the prices of cars. Teachers and civil servants gets salary for supplying their work force.
The following sentences shows that teachers are not in good situation.
The outsourcing survey at 2006-08 by the ministry of educational,culture, sports, science and technology shows that nine out of ten teachers answered ‘Yes’ to the question ‘Is being teacher worth doing?’, whereas nine out of ten answered work was too much, it come to twice as general corporation. Moreover depressed teachers are 27.5% and it comes to three times as general corporation.
This is the same as the civil servants. Cut people and salary, and work a lot of overtime, public workplace gets inhumane and depressed worker is increasing rapidly.
If you calm down, you can easily understand that the offensiveness to others never improve your life. If we thwart each other, it brings about the death spiral and everyone gets poorer. It strangle yourself. The M’s party of M means the rich. The things are it is the party which make people thwart each other.
Anyway giving teachers bashing make them only feel pain. Education is never improved. Unless education is improved, children never grow wise. Unless children grow wise, the society never evolve. To the contrary, it sent out the negative assets to the society. And the competitive education is conducted in order to send out children into the thwarting society, children find more difficulty to live. The negative assets is growing bigger and bigger.
Society which lacks play and time to spare for teacher and educator must distinguish.